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天文学入門 発刊にあたって

発刊にあたって
 国立大学法人 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター 長岡英司

天文学へのアプローチには,視覚が必須と思われているのでは ないでしょうか。そうした通念へ投じる一石として,本書を発刊 します。同時にそれは,読むことの可能性についての例示でもあります。巻頭の挨拶としてはいささか長文ですが,その背景と経緯を記させていただきます。

読む可能性の拡がり

人には誰にも,読みたいものや読まなければならないものが常にあるはずです。しかしながら,視覚障害者の場合は,読むことへの対応が容易ではありません。それは,いうまでもなく,視覚障害が,通常の形態の本や書類を独力で読むことや円滑に読むことを困難にしてしまうからです。この問題を解決する方法は,点字化や音声化,拡大文字化です。とはいえ,それらはいつでもどこでもすぐに できることではありません。それゆえ,視覚障害者は読みの困難に悩まされ続けてきました。
 ところが,近年,その状況がかなり好転しました。それをもたらしたのは,PC(パソコン)をはじめとするIT(情報技術)です。ITが,触覚や聴覚,低視力で読めるものを飛躍的に増やしました。 その具体的な一つは,点訳や音訳,文字拡大の作業の能率が向上し,それらによる製作物が迅速に提供されるようになったことです。 また,視覚障害者自身が点字や音声,拡大文字への変換を部分的ながら独力で行えるようになったこともあります。それに加えて,情報の電子データ化とその流通が社会全体で進んだことが重要です。インターネットがその一例ですが,電子化された情報の多くは,PCで点字や音声に変換して,あるいは拡大表示して,視覚障害者も 独力で読むことができるからです。さらに,点字や録音の電子 データ化は,点訳や音訳を行う側と視覚障害者の双方に,利便性の向上をもたらしました。

多様化するニーズへの対応

こうした変化は,当然,学業の場面にも及んでいます。視覚障害を持つ学生が大学等で十分に学べるようにするには,適切な学習支援が欠かせません。中でも,学習資料の保障はとくに重要ですが,ITによって従来よりもそれが確実に行えるようになってきました。視覚障害学生が,インターネットや文書読み取りシステムを使って,独力で学習資料を収集し,利用可能な形態に変換する例も増えています。しかしながら,一方で,問題も現出しています。それは,点字や録音,拡大文字といった単一の媒体だけの学習資料では十分でない場合が増えていることです。その背景としては,視覚障害学生の読みのスキルの多様化と,専攻分野や履修科目の多様化を挙げることができます。こうした多様化への対応が,これからの学習資料の保障における課題といえます。

手でも耳でも読める図書

さて,国立大学法人筑波技術大学(本学)障害者高等教育研究支援センターでは,2006年度から文部科学省の特別教育研究経費に より,視覚障害学生のための学習資料の整備を図る「高等教育の ための学内外視覚障害者アクセシビリティ向上支援事業—視覚障害者用学習資料の製作拠点の整備」事業を実施しています。この事業では,点字図書や録音図書を系統的に製作して学内外に提供するとともに,それらを効果的に行えるようにするための体制の整備を 進めてきました。それと同時に,学習資料の保障に対する多様な ニーズにこたえる方策を探る取り組みも始めています。その一つが,“マルチモーダル図書”の製作です。マルチモーダル図書とは,触覚や聴覚,低視力のいずれでも読める図書を意味します。つまり,読み手が,自身の読みのスキルや記述内容に応じて,点字や録音,音声読み上げや文字拡大などを適宜選び,あるいは組み合わせて 読み進める,複合媒体の図書です。こうした図書があれば,視覚 障害学生が個々の読みのスキルや学習内容に応じた方法で利用でき,多様なニーズへの対応の一つの方向性が示せることになります。 この想いが,本書を発行した原点の一つです。

天文学はうってつけ

その実現のきっかけをもたらしてくださったのは,バリアフリー出版というテーマで事業を展開している有限会社読書工房の成松なりまつ 一郎社長です。「視覚障害者にも確実に読めて,よく理解できる 天文学の入門書を書いてみたい」という希望をかねてより持って いた著名な天文学者と天文教育の実践的研究者のお二人を,同氏が紹介してくださったのです。言うまでもなく,本書の著者の嶺重みねしげ慎しん さんと高橋たかはし淳じゅんさんです。このお二人の長年の想いが,本書の発行のもう一つの原点といえます。
 本学が製作を目指すマルチモーダル図書は,前述のような目的 から,当然,学習資料としての側面を備えていなければなりません。それゆえ,具体的な例を挙げるならば,図表や数式などによる記述が用いられるような題材や内容が望ましかったのです。その意味でも,天文学に関する図書の製作は大変に好都合でした。

連携と協力で多媒体化

2007年の秋,嶺重さん,高橋さん,成松さんが本学を訪問され,学内の関係者との最初の話し合いが持たれました。その席でマルチモーダル図書の製作についての協力をお願いしたところ,嶺重さんと高橋さんからは原稿の執筆を,成松さんからは種々の連絡・調整を引き受ける旨の承諾をいただくことができました。著者お二人は早速に執筆作業に着手され,本書の製作が始まりました。
 2008年の初めには最初の原稿が完成し,すぐに点字版や録音版の試作が行われました。そして,2008年度に入ってからは,点字化や音声化を踏まえての,記述内容や表記の調整が続けられました。 監修を担当した本学では原稿の読み返しを重ね,点字読者に理解 しやすい表記,音声読み上げに適した表現,形や色彩を適切に説明する文言などの観点から,種々の問い合わせや依頼を著者に対して執拗に行いました。また,長年にわたり視覚障害者として天文学に接し,天文教育普及研究会にも所属しておられる藤原晴美さんらにも,種々の的確で貴重なご助言とご指摘をいただきました。
 同時に,「図表もふんだんに取り入れ,それを視覚障害者に きちんと伝えたい」という著者の強い想いに沿って,点図の製作が本格化しました。点図は,容易に印刷できるのが望ましいことから,点字プリンタで打ち出せるデータ形式で製作することとしました。その場合,現在の点字プリンタの機能では,わずか3種類の点ですべてを描かなければならないことから,製作には十分な工夫と配慮が必要となります。そのため,何回もの試作と調整が繰り返され,ここでも,藤原さんらのご意見はたいへんに有用でした。そのように文章や図表を作り上げていく過程では,触覚や聴覚,低視力での読み取りやすさを追求したいという想いと,サイエンスとしての 天文学の厳密さを損なってはならないという想いが様々に交錯しましたが,著者お二人は常にそれらに誠実に対応されました。そして,点字や点図の表現でのアイディアが,原文や原図に生かされることもありました。
 本書の製作には,著者や編集者をはじめ,点訳者や音訳者などの多くの人々が携わりました。また,それを支えたものや,発行の 実現に寄与したものの存在も重要です。たとえば,点図の製作や 印刷には藤野稔とし寛ひろさんが開発された一連のフリーウェアが用いられました。それがなければ,点字版の発行は実現しなかったでしょう。点字・点図データの印刷用として本書に添付されているソフトウェアは同氏の提供によるものです(このソフトにバンドルされているUNLHA32.DLLはMicco氏の開発物です)。そのほか,音訳版は デイジー・コンソーシアムが定めた障害者向け録音図書の優れた 国際規格に従って製作されました。活字版には有限会社字游じゆう工房が無償で提供してくださった視認性の高いフォントが使われています。電子版は株式会社ボイジャーが開発し,低視力者への対応や音声化も可能な,ドットブック形式で作成されています。このように, 本書は,多くの人々や組織の直接・間接の連携によって完成しました。

宇宙の姿を皆で見る

ところで,宮沢賢治の星にまつわる作品『銀河鉄道の夜』や 『よだかの星』などを読むと,色彩豊かな風景が頭の中に自然に 思い浮かびます。まさに言葉による表現の力を強く感じさせられる文学作品です。一方,本書は,壮大な宇宙の歴史や仕組みを,専門用語や数式も多少用いて学問的立場から平易に解説する入門的科学書です。ですが,単に読者に知識を提供することだけを目的としているわけではありません。読みの方法の別を問わず,“宇宙の光景を鮮やかに思い描きながら読み進んでほしい”という願いも込められています。製作に携わった関係者のそうした想いが真に実現することを願う次第です。
 本学では,本書を視覚障害者教育にかかわる機関や図書館等に 広く無償で提供する予定です。それによって,本書が多くの視覚 障害者やその教育関係者に,教材や読み物として利用されるよう 願っています。また,視覚障害者のための学習資料の製作にたずさわっている方々の参考資料などとしてもご活用いただければ幸甚です。さらに,本書が一般の多くの方々の目に触れ,天文学はもちろん“読むことの可能性”への関心が広がれば関係者にとって望外の喜びです。今後,本書を,一元的な電子データなど,より統合性の高い形態に発展させる可能性もあります。そのようなときの参考にさせていただくために,お読みになってのご感想や改善に関する ご意見をぜひお寄せください。

最後になりましたが,本書の製作と発行のためにご尽力くださった数多くの皆様に,心より感謝し,御礼申し上げます。

2009年3月24日

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